読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いろんなことをつぶやくDJ番組的なブログ。文章書くことはまだ修行中の身です。


ネット海へ放ったいくつかのボトルメール( Messaga in a bottle )       カテゴリーは工事中です



本好きの私が,出版に対して感じていること

バリかた 社会

 出版物による言論とネット上の言論の何がどう違うのだ……と問われたとき,誰もがまず「プロによる言論とアマチュアによる言論の違いだ」と答えます。WikipediaYahoo知恵袋で調べ物をすることの「害悪(?)」は,記事の信頼性にあると言われます。その辺りは……まあそうなのだろうなと思っています。

 では,その信頼性とは? 大手出版社から世に出る書物というのは,著者の生原稿がそのままの形で活字になり書棚に並ぶことはあり得ません。たとえば学術的な領域であれば必ず,査読という作業がその間に入ります。その方面のプロフェッショナルから見て,独りよがりだったり勘違いだったりオカルトだったりする考えを検討・排除・取捨選択する作業——さらには,大手出版社の編集者(ご自身で著作物を世に出せるほどの教養に裏付けられている)によって厳しい意見が出されて修正が加えられて——こうしてはじめて書棚に並ぶものとして流通していく(ものだと私は認識しています)。いわゆる「自費出版」が軽視されるのは単に,こうしたプロセスへの信頼性の薄さを理由としています。

 どの程度きびしくそのプロセスを実行してゆけるかが,出版物としての信用です。そうしたプロセスを経ない「野良出版物」だらけになってしまった日には,出版物の信用は地に墜ちてしまいます。ある意味「野良書き物」がそこいらにぷかぷかと漂流しているのがネット界。もちろん,役に立つ情報・知識もたくさん拾い上げることができますが,調べる側には必ずしも「見分ける眼」があるわけではない。というか,そもそも見分ける眼がないからこそ,今まさに調べ物をしているのではないんだろうか,と。そういうものですよね。

 権威というものは時々どうしようもないものだったりもしますが,信用度に対して一定の指標を与えてくれるものであったりもします。「岩波」「中公」「講談社」等々からオカルト本が出るとは考えにくいだろう——しかし出版社はあくまで「お金になる仕事」をやっていかなくてはならない立場にあります。単刀直入にいえば,大手出版社からもたらされるソースも実は相当(とりわけ道徳的に)おかしいものになりつつあるように思えてならないのです。センテンススプリングと文春のアカデミックな新書が「同じ出版社」から発信されていることの意味を考えてみなければならない。権威ある講談社が,その裏でFRIDAYを売り続けていることの意味を考えてみなければならない。ASKAさんの告白本はどの出版社から出るのだろうか幻冬舎だろうか,それとも太田出版だろうか……。

 アカデミーとは関係のない「文芸書」だからといって,著者の好きにさせてくれるわけではありません。編集者の手に渡ったあと「校正」だけで流通するなんてことなんて絶対にありませんからね(それが可能なのは自費出版だけです)。大手はより儲かるように,無邪気なその生原稿を「情報操作」するでしょうね。肝心な主張を削ったり,書いてもいないことが書き加えられたり……東大・早慶卒の人たちを舐めてはいけません。出版界は本来,それほどまでに敷居の高い世界です。それがイヤなら自費出版でってことになります。でも信用されることでいえば,自費出版するぐらいならネット上に原稿を漂流させておいたほうが余程安くつく。社会的な意味合いとしては,両者にほとんど違いはありませんから。

 学術書であれば編集の基準は「正確さ」「わかりやすさ」でしょう。文芸書・大衆書であればどうなのでしょう。学術書は「知識として残されていく」書物ですが,その時代時代の刹那的なエンターテイメントという位置づけの書物はどうなのでしょう。FRIDAYを売りたい講談社なら,告白本の生原稿を「FRIDAYを売るために」利用するかも知れない。そもそも企業は「利潤追求集団」なわけですから,「商品」を別の購買欲のために「利用」しない手はない……と考えて当たり前ではないのかと。利益が得られるからこそ,著名人の言論に手を貸してくれるだけのこと。人権などという抽象的なものなんて,まるでないがしろで当たり前。

 少し話は横道にそれますが,学術的な領域でさえ,新しいことなんて何一つ言わない「解りやすくかみ砕いてみました」的な本ばかりになっています。理由はやはり我々がこういうものを求めていて,出版社も儲かるからだと思います——ただ,それは「必要なもの」なのです。プリンキピアを読んでもちんぷんかんぷんだからこそ,その道の権威が書いた「プリンキピアではない」物理学書を読むわけです。アドラーを読んでもちんぷんかんぷんで岸見一郎さんを読んだりする。煮詰めていけば,ニュートンアドラーの原書をネイティブの言語で読むところまでしなければ真意は正確ではない。その敷居が高すぎるから翻訳本というものもあるわけで——だから,そうしたものはみんな「必要」ではあるんです。

 でもその目的に応じて,われわれ読者が必要にあわせたフィルターを持たなくてはならない。そもそも読み方なんて自由なんですが,勝手に畏怖を感じてしまったりとか言いくるめられてしまったりはしないようにね。「ソクラテスの口を借りて,プラトンが自分の意見を差し挟んでいる」的な構図がどこにでも入り込む可能性がある。求めている知識がソクラテスなのであれば,プラトンの意見とソクラテスの事実をきちんと分けて眺めなくてはならない。どこまでがアドラーの述べたことで,どこからが岸見先生の見解なのかをきちんと分けて眺めなくてはならない(もちろんそこまで息苦しく読む必要のない読書は,もっと自由にやればいい)。本当は翻訳本が,訳される前後で意味が変質していないかどうかさえ疑わしい場合だってあり得るのです。

 そうしたことをどこまで真摯な態度でやっているのか……それこそが大手出版社の誠意のはずなんですが……だからこそ書物ってのは「はずみで」出版すべきものなんかではない。私にはそう思えてなりません。

 

 

 長々とお付き合いいただき,ありがとうございました。で,こんな冗長でわけのわからない私の文章が,そのまま流通出版物の生原稿として……まかり通るわけがないでしょ? 「もっと論点を絞って,削るところを削りなさい」なーんて言いながら,言いもしなかったことが編集者の手によってくっついてくるのがオチ(たぶんね)。私がねちっこくて回りくどいソクラテスだとすると,編集者はプラトンかも知れませんよ。ネット上だからこそ,こんな稚拙な主張をありのままの無防備な姿で陳列していられるのです ^ ^;

コメントは承認制にさせていただいております(ご投稿後,即時には掲載されません)。

必要な場合,私信などにもご利用下さい。