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いろんなことをつぶやくDJ番組的なブログ。文章書くことはまだ修行中の身です。


ネット海へ放ったいくつかのボトルメール( Messaga in a bottle )       カテゴリーは工事中です



【覚え書き】チャンネルを固定されたテレビ

かため ブログ論 言葉 覚え書き

 自分のために書いているのだとすれば,言葉はむしろ多くなって当たり前なのです。形のないものを形にしようとしているわけですから。ただ,表現することは引き算なのかも知れないな……と気づきました。

 ブログは本来,表現のためのツールだったのかも知れませんが,いまの私はまだ表現というものまでに手が届きそうにない。客体を設定してはいるけれど,自身によって設定されたその客体もまた「自分自身」であるのだと思います。いずれにせよ物事には順序がありますし,熟れてくるには時間もかかります。私は自分を信じてはいる(つもりだ)けれど,自分が自分以外の誰かの役に立てるのかどうかまでは分かりません。

 ここまで書いたことを裏返しにして,私以外の誰かが私の役に立ってくれる可能性(もしくは私に対して害悪になる可能性)を思い起こしてみます。

 表現はまず表現者「自身を労る」物事から動き出したにちがいない。やがて,その表現者自身を超越して周囲に働きかける作用がはじまっていく。で私の精神が,私ではない何者かから影響を受けることが現実に幾らでも起こっていた——私は向きを変えることのできない受信用アンテナに繋がれた,1つのチャンネルしか映らないテレビだったのかも知れません。

 アンテナは何も受信するためばかりの物ではない。放送局はアンテナを送信に用いている。

 でも,そこまで行き着いてしまう前に,私がそのひとつのチャンネルしか見ていなかったことから物事を考えてみたいと思います。チャンネルは切り換えることのできるものだ,テレビは消すことのできるものだ——そういったことを知ることが知恵であり,そういったことを知らないことが無知なのだと思います。そして教養というのは,どれだけ沢山のチャンネルを視聴したかという経験なのかも知れません。

 経験は多いほうがいいのか,それとも少ないほうがいいのか。教養豊かなことが良いことのように言われているけれど,むしろ教養の守備範囲なんてものはダウンサイジングされていたほうが迷いが少ないのかも知れません。かといって頑なに単一のチャンネルしか持たないということは,チャンスを逃している事のように思えてしまう。ましてや,そのチャンネルが「生まれつき固定されたチャンネル」だとしたら,私は私を創り出した者(親)が表現したものばかりを受信し影響されつづけることになってしまう。

 要するに「チャンネルを私自身でコントロールできること」が大事なのではないかと思います。

 外側のいう常識とか非常識とかでいろんな物事を測りたくはない。人は不可思議なものです。自分と同じぐらい不可思議なものに魅力を感じないはずがないわけだから,本当にチャンネルのリモコンが私の手に委ねられているのだとしたら,間違いなく面白そうなものを追いかけ始める。分かりやすいか分かりにくいかではない——その概念が本当に救いを与えてくれそうなものであれば,少しぐらい分かりにくかったとしても必死で分かろうとするものです。常識的なものが必ずしも「善いモノ」ではないことは,この歳になって身を以って知りました。遅すぎたとは思いません。むしろ,死ぬまでに間に合ったこと自体をとても満足しています。

 で,ここでようやく「双方向性」について注目してみることにします。

 私が「選ぶことの出来る」人なのであれば,私以外の人もちゃんと「選ぶことが出来る」はずなのです。要するに私はただ,私以外の人から「選んでもらえば(あるいは捨ててもらえば)良い」だけなのです。はじめから「価値のあるものしか発信してはいけない」なんて思いすぎなくていいのだと思います。そこまで物わかりのいい人間でいようとしすぎなくても構わないのだと思います。洗練されているものが好きな人はそうすればいい,洗練されていないものに共感を覚えてくれる人が私のことを拾ってくれる可能性はゼロではない。そもそも洗練なんてものの量は測ることができないし,また測る必要もない。

 選ぶとき,選んでいるモノを揶揄したがる人がいます。高圧的に排除しようとする人もいます。それらはその人の反応以上の何物でもないわけですから,別にどうでもいいことなのですが,私の権利が不当に抑圧・剥奪されそうになっていたら闘わざるを得ない場合があり得ます。もちろん黙り込んでしまうというやり方もありますが……綺麗事として WIN WIN で片付かない問題の場合はどうするのか。誰かが傷つかなければ折り合いがつかない物事であれば自明的に,相手ではなく自分を守りに行くべきなのかも知れません。相手は例え私が守ってやらなくても,必要があれば彼自身が守るでしょう。しかし私は私自身で守らなければ,相手からいいようにされてしまうわけです。もちろんどんな不条理な喧嘩においても,我が儘なその相手が彼自身を守ることを私は許さなければならなくなります。要するにその喧嘩の落としどころは,どちらかがどちらかをねじ伏せるというよりは,納得のいくまで互いが喚き散らしあって昇華するところに見出すしかないのかも知れません。どうしても黒白つける必要があるのなら,法律(名誉棄損など)なり民事裁判(慰謝や酌量に関することなど)なりに裁いてもらうしかないでしょうね(黒白つける以前に,まずその俎上に載せることの同意を取り付けることから始めなければならない——そういう物事すらあります)。いずれにしても思想の表現において,ジャーナリズムは警察でも裁判所でもありませんから,そうしたものがポリシーを持った誰かを「追い詰める」ことなんてできないと思っています。

 「私のような人」がこの文章を目にしたならば,貴方は「1つのチャンネルしか映らないテレビではない」ことを知ってほしいと思います。貴方は好きなチャンネルを選ぶこともできるし,アンテナは送信のために使うこともできる。不快な番組がはじまったらテレビのスイッチを切ってしまうこともできるし,反論の番組を貴方の側で持つこともできる。貴方が黙り込まなければならないなどといった法律はない……というよりは,貴方自身が貴方の法律であるぐらいに考えたほうがいい。もちろん社会の法律に反することは犯罪になってしまいますが,道徳とか不道徳といったものは規制されるものではありません。法律よりも道徳(だとその人が主張すること)によって脅迫を受けていたりしませんか?

 

 

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