読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いろんなことをつぶやくDJ番組的なブログ。文章書くことはまだ修行中の身です。


ネット海へ放ったいくつかのボトルメール( Messaga in a bottle )       カテゴリーは工事中です



柳美里さんの「自殺」を読みながら考えたいろんなこと

読書 覚え書き かため

 以下はまったく柳美里さんの著書からかけ離れて、まったく勝手に私個人の私見を綴った内容(たわごと)になってしまっていますので悪しからず。書評なんかではありません。ご了承を。

 

 いつものようになんとなくKOBOで買い求めて、2時間ほどで読みました。読んでいて真っ先に思った……「これ、たぶん随分昔に読んだことがある」と。尾崎豊さんが不審死を遂げた頃からさほど時間の経っていない頃だと推測されますから、きっと私が大学生あたり?——あるいは新刊されて時間を隔てて読んでいるのであれば、就職した会社をやめてしまった辺りでしょうか。30歳手前ぐらいの時期に少しだけ濫読してた時期があったので、そのぐらいの時期であった可能性が一番高いような気がします。

 当時(いや、もう学生時代からずっと)社会との噛み合わせの悪さとか、何ともいいようのない得体の知れない「生きづらさ」の中にいたことには違いなかったんですけどね。でも、その「生きづらさ」の正体を暴こうにもそれだけの頭がなかったんですよね。中二ぐらいのまま私の精神はひたすら被害者意識の中にとどまって、「これは親の育て方が悪かったんだ」「周りの連中が理不尽に虐めるんだ」「会社なんて所詮は俺のATMだろ」みたいに閉じこもって開き直って愚痴って……そういう時期に、この柳美里さんの「自殺」をきっと私は一度読んだにちがいないのです。

 当時の私は、死の匂いのする著書ってのをまさに「中二病的に」読み漁っていたような記憶があります。死に対する触感なんて、あまりにも表層的だったくせに。単に甘美な匂いのする「逃避先」ぐらいに、実に薄っぺらいリアリティでそういうものを無闇に漁っていた心当たりがあります。要するに当時の私というのは、許しがたいほどに無教養で無経験でバカでした。

 2、3年ほど前、本気で許せなくなっていたんですよね。その当時の自分ってのが。何であのとき、ちゃんと死んでおかなかったのかと(笑)。昨日読んだ「コンビニ人間」ともどこか被るところがあるんですが、私自身がおそらく「役割に埋没することが生きることだ」程度のリアリティーのまま、そこで固着して30歳ぐらいまで行ってしまった屑だったのです。今みたいに厳しい時代であれば、それは仕方ないようなところがあるのだけど、私の時代はまだ温々としていたもので。つまりもっとリアリティーに拘るだけの余裕はあったはずなのです。そのくせなぜか古倉にならなきゃならないと思ってて、でもなり損ねて白羽になってしまった。ただ私には古倉を利用して寄生するほどの狡猾さも厚かましさも(言い方を変えれば、他人に「依存する能力」も)持ち合わせていなかったので、だから力なく引きこもっていたようなものです、精神的に(苦笑)。そんな私がこの本を当時、どんな風に読んでいたのだろう。レール上を走ることしかできないことに対して抱いた鬱屈を、きっとモラトリアム以上のものへ昇華する知恵すらなかった私は、きっとこの書物をビターチョコレートぐらいのものとしか読み解けていなかったに違いなくて。

 私の20歳代ってのは間違いなく、柳美里さんの著書内の『放課後のおしゃべり』のようなディスカッションができるほどの頭すら持ち合わせていなかった。無教養でナルシシズムの塊のような人間でしかなかった。音楽雑誌でしょっちゅう目にしていた尾崎豊にもなれなかった(週刊カドカワだったっけ、尾崎豊さんの描いた文章とか斉藤由貴さんの描いた文章とかよく読んでいたけどなあ。少し遠ざかったぐらいのタイミングで尾崎さんが死を遂げたのでした)。ほんと、どうしようもないです。そこまでぐじぐじして立ち止まるんなら、本気でキルケゴールとかを読もうだとか、本気でフロイトを読んでみようだとか思えなかったんかなあと(でも、そういうモチベーションの持ち方をする中二病ってのは、大抵それさえ失敗するってのもオチなんですけどね)。パチスロとか風俗とかにハマってる場合じゃなかったぞな(苦笑)。

 人の親になった今さえ、死というものに覚悟なんて持てません。頑張ってすごく痩せたのに睡眠時無呼吸が治らないとか、糖尿が発覚したとか……死のリスクはまちがいなく高まっているんですけど、どう考えても「意識を永遠に失うこと」なんて想像がつかない。誰しも人間は死に向かっているのだからとクールに語ってみても、窒息寸前のような目覚め方をしたその朝、ひとまず自分がちゃんと死なずに生きていることに安堵していたりする。それに気づいたとき、きまって「ヘタレだなあ、俺は」って思ったりなんかする(笑)。

 ひょっとしたら私が70歳ぐらいになったとき、国をあげて「安楽死奨励法案」なんてのができているかも知れない。私が安楽死を選んだら、国から遺族である若い世代に報奨金が支払われるような……このまま行けば、本当にあり得るんではないだろうかと。戦争が起こらずに一見平和に時間がすぎたそのとき、日本が「野良老人」で溢れ返り、前述したやり方で死んで若い世代に貢献できることが むしろステイタスになるような——そういう時代が本当に来てしまったりするのではないか。今から取り越し苦労する物事なんかではありませんけどね。

コメントは承認制にさせていただいております(ご投稿後,即時には掲載されません)。

必要な場合,私信などにもご利用下さい。