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いろんなことをつぶやくDJ番組的なブログ。文章書くことはまだ修行中の身です。


ネット海へ放ったいくつかのボトルメール( Messaga in a bottle )       カテゴリーは工事中です



いじめは「被害者」も悪いのか?

社会 バリかた

headlines.yahoo.co.jp

 金沢市教委が昨年10月、市立小・中・高校の全児童・生徒(小学生2万3318人、中学生1万1444人、高校生713人)対象に実施した「いじめに関するアンケート」で、小学生と中学生のそれぞれ約3割が「いじめられる人も悪いところがあると思う」と答え,逆に「思わない」と答えた割合は中学生が全体の2割弱(小学生より半分近く少ない)。学年が上がるにつれ、いじめの原因が被害者にもあると考える傾向が強まる実態が浮かんだ。また「いじめはどんな理由があっても絶対にいけないと思う」とした児童・生徒は90%前後で、大半の児童・生徒は加害行為に厳しい見方をしている。
 市教委の学校指導課長は「どんな理由でもいじめは悪く、『思わない』が望ましい選択だ」と強調。結果について「学年が上がるにつれ、いじめられる側の言動など、きっかけを見聞きし、悪いと思うのではないか」と分析した。
 いじめを受けた時の相談先としては、「誰にも相談しない」が小学生22.2%、中学生28.7%。その理由は、小学生では「迷惑をかけたくない」、中学生は「どうせ解決しない」がそれぞれ最多で、中学生になると諦める生徒の割合が増えていた。 

(記事は一部要約しています,強調<赤>はnagoyanianによる)

  昨日につづいて,またこのテーマです。

 「いじめられる人悪い」ってのは,オトナになっていくにつれてそう感じる人が増える——それで当たり前だと思う。オトナ社会であれば,もう「その通りだ」って言い切っても構わないでしょう。おそらく当人さえ「いじめられている自分だって悪い」って思っているものではないでしょうか(少し前の私もそうでした。40過ぎていじめられるって本当にミジメなんだけどね)。いじめのターゲットにされやすい性格ってのはどうしても有ると思います。私だって,だからこそなるべく「口を慎む」生き方を選んでいるわけですが,口を慎んだら慎んだらで「こいつ,どうせ何も言わないから」という構図で不公平とか理不尽な物事に利用されて巻き込まれてしまう(笑)。でも生きていかなくてはいけないんだ。守らなきゃならない領域があるから。自分に不利になってしまうような「人から嫌われやすい」エゴの要素をコントロールして生きようとして,いろいろ考えてやっているつもりです。過剰にコントロールしようとしてしまうから,ガードばかり固くて窮屈なヤツってレッテル貼られてる節もあるんだけどさw。

 で,以上はあくまで「オトナ」になってからの話……ですからね。お間違えなく。

 あと,恐喝・暴力・金銭授受が入りこむと,それはイジメとは別物の犯罪ですから(たとえば中学・高校においてそういったものが入り込んだら,はっきり言いますが「警察」に介入してもらえばいいんです)。ここでは「いじめ」の定義から,犯罪に相当するものは除外してお話しているということでお願いします。

 

 子供はまだ「社会の仲間入り」において,若葉マークをつけた修行の身。自分が何者であるかをまだ模索中のはずなんですよね。どこまでが自己主張でどこからが我が儘なのか,それを同級生である相手の顔色や態度を通して「学習」しているはずの年頃——小学生の中学年ぐらいまでに関しては,こう言い切ってしまって構わないと考えています。この時期は「あらゆる個性が安全に過ごせること」が何よりも優先されなくてはならないのではないかと。一切がっさいの理屈抜きで。感情が交換されることはOK。喧嘩だってOK……なんですが,そこに一対多の構図が生まれて「孤立させる」というオトナのやり方が入り込んでしまうことがあまりに危険なんです(いずれは覚えていかなきゃならないことではあるんだけど)。喧嘩を上手にさせてやれる場ってのが理想ですよね。喧嘩に「強者弱者」とか「孤立させる企図」って要素が,この段階で入る事が危険なんですってば(でもこれらは,いずれは入る)。そういうことの起こらない場を,教育者がコントロールして「強制的にでも」実現する「べき」なんです。これはきれいごとなんかではなくて,未熟なものをサポートする上での「必要性」としての話です。

 しかし幼い個性が40人近く一緒に過ごす中で,さまざまな軋轢が生じるのは当たり前。だからこそ無政府状態になってはいけない。要は指導者が「コントロールできる」規模の場であるかどうかが大事なのではないか,と。指導者が無能なのではなく,能力ある指導者にコントロールがムズカシイ場を押しつけすぎているのではないかなと(まじめで有能な指導者でも凹んで自信失いますよね)。低学年の現場ほど,本当に「ちゃんと」バランスを取っていなくてはならないのに(それと親に過剰な文句を言わせてもいけない——ここは家族ではないコミュニティーだと毅然といえる現場であることが最高です。でも我が子が「コントロールされていない場」に身を置いて傷つけられる事態があれば,文句を言うしかない状況も起こり得る)。

 1学級何人なんて議論がさんざ為された時期もあったけど,やはり40人は多すぎると思う。共同体の規模が「はじめから」大きすぎることを心配しているんです。発達障害の問題がクローズアップされてきたりの昨今,指導者が臨機応変に対応することが可能な程度のスモールサイズであってほしいと考えます。大規模集団で回していくやり方は,経済的にいえば「安価で手っ取り早いシステム」でしょうけど。ここは経済性で判断すべきでない。

 かといって,児童にしてもいつまでも温室育ちではいられない。だから,社会共同体が「少しずつ大きくなっていく」システムになればどうかと。極論すれば小1で10人ぐらいのコミュニティーで仲良くすることから覚えさせて,徐々にそれを大きくして,中学で30〜40人ぐらいのコミュニティーで生きられるスキルがついているようなシステムが理想かなと感じています。高校生ならもう「クラス全員が友達」なんて感覚から卒業していて当たり前ですもの。今の子って案外,高校生になってなお「ひとりでいてはいけないんだ」って思いすぎていはしないだろうか??

 「甘やかすな」という人もいるだろうけれど現実に,ひと昔より数段「ひとりひとりが自己肯定感を持って生きていくのがムズカシイ」社会になっています発達障害という症名を被せられる子供ってのは,その子が劣っているからというよりは「社会が高度な状態を求めすぎるようになりすぎたから」立ち回りの不器用さが浮き彫りになっているような気がしてならないんですよね(あまりにも素人みたいな物言いに見えたらごめんなさい)。

 雇用の厳しい今の時代ですが,子供を指導できるだけの潜在能力をもつ人材は結構いるはずなんです。教育に関しては投じる税金の比重を高くして構わないと思うのです。だって(前回も書いたように)国力の回復は,この世代の頑張り次第でもある。彼らの世代に税金を投じるのは我々オトナの「投資」でもあるわけです。とはいえ,肝心のオトナがいろんな不祥事をやらかしたりもするんですが,良くないのは指導者自身が自己肯定感をもって教壇に立てていないことだと思う。

 論点がいろんなところに飛んで,支離滅裂になってしまってますが……徐々に整理していきたいと思います。駄文に長々とお付き合いいただき,ありがとうございました m(_ _)m

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