読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いろんなことをつぶやくDJ番組的なブログ。文章書くことはまだ修行中の身です。


ネット海へ放ったいくつかのボトルメール( Messaga in a bottle )       カテゴリーは工事中です



「抑圧」と「排除」

バリかた 心理

 こんなKOBOの電子本を読んでました。

f:id:nagoyanian:20170205202924p:plain

 心理学の本を読んでいると,「抑圧」という概念のほうはとても頻繁に目にするのですが……「排除」という概念についてはこの本ではじめて目にしたような気がしています。面白いなあと感じたので,ちょっとここにメモっておこうと思います。

 「抑圧」は,意味をもったある感情や欲望(意味について他人と伝えあうことのできるような感情・欲望)に対して生じる,次のような心的状態をいいます。ある人間関係において,何かの感情が「悪いもの」と見なされたとき,その感情が本人の意志によって封じ込められてしまう——このことが「抑圧」といわれる心的状態にあたります。
 私の父親は瞬間湯沸器という例えが相応しいほど「怒りの沸点の低い」人です。すぐ怒る。父親本人はそんな自分を正当化してはいるものの,子供だった私には「怒ることは良くない」と言い続けてきました。今思い返せば,私が怒りの感情を表したそのとき,両親からは逆にとても面白がられ(もしくは見ないふりをされ),その感情を「笑いもの」のように扱われていたように思います——私の怒りが彼らによって「共感」された体験がまったくといっていいほど何も思い出せないのです。無いものは思い出せるわけがないのですから,きっとそういう経験が幼少期の中において欠落しているのだと思われます。
 結局そういうわけで,私は「怒ることを極端な形で抑圧してしまう人」になり「上手に怒ることがまったくできない人」になってしまったのでしょう。不快の感じ方として,怒る人が「滑稽な人」に見えてしまうようになってしまったのは,怒りの表出を忌避するために必要となってしまった「歪んだ認知」のひとつなのかも知れませんね。

 もし親子関係において,怒りの意味が隠されてしまったとでもしましょう。するとその怒りは「悪いもの」と見なされるわけでもなく,「よくわからないもの」として心の中に有り続けなければならなくなる。その怒りは,押さえつける(抑圧)のではなく,無いのと同じようなものとして扱う(排除)方法で対処するしかなくなるわけです。以上が「抑圧」と並立するような意味における「排除」なのだと理解しました。

 その部分を読んで私が真っ先に思いついたのは,「人の気持ちが分からない」と評されるアスペルガー的な人格のこと。人の気持ちの分からなさというのが,くだんの「排除」によって作り出されている可能性です。あるアスペルガーっぽい人に,ある感情の欠落を感じるとき……それってひょっとして「親が直面しなかった(というより,社会的な背景の下で親が直面し損なわされてしまった)せいで,意味を共有することに失敗した感情」ってことはないんだろうか——と(もちろん,そればかりではないでしょうけれど)? もしその「欠落している感情」が,親子関係においてうまく共有されなかった感情だったのだとすれば,その欠落は本人の病的素質に由来するものではないと言えなくもありません。現代の親子関係において,そういうことは十分に起こり得るのではないかと。そうした「排除された感情」の欠落が,いざ社会に出て交際をはじめたときにクローズアップされることになって,その人の社会生活を大きく阻害した……そんな感じの適応障害的な状況というのは十分起こりうる物事なのではないかと。

 私の世代というのは,団塊世代第二次世界大戦直後)前後あたりに生まれた両親から育てられている。彼らが生まれ育った高度経済成長期の社会性・文化といったものが,まさに私と同世代にとって「親」のようなものであるわけです。私ばかりでなく同世代たち全体について,必然的に「抑圧された」パーソナリティーが形成されてしまっていることが多い。そして今まさに現役である我々は,我々が「抑圧された」ものを次の世代に対して「排除」してしまっていないだろうか,と。私の世代は社会の中に,あまりにも多くの隠された不文律を埋め込みすぎてしまった。で,現代社会のその「分からなさ」のせいで混乱し,私の次の世代(今の子供たち)が次々に「適応障害」の診断名をつけられてしまっている(かも)。

 発達障害ってのは裏返せば(その子供の素質障害ではなく),現代社会が「分かりにくくなりすぎている」ことと,親である私の世代の「自信の低さ」から来ているのではないのか——と。私の世代が「抑圧」され,次の世代に対して「排除」してしまったその感情というものには,実は動物として生きる上で必要な物事も相当数含まれているような気がするのです。特定の欲求や感情が社会から容認されなかったり,意思疎通がうまくいかなかったりすると,その苛立ちというのがカンシャクという形になって現れても不思議ではない。ある意味,逆に「団塊世代のワガママ」に対しても説明がついてしまうかも知れないぐらいで。ネット上のギスギスした雰囲気も世論も……実は「抑圧されていた」はずのものが「排除」されてしまおうとしていることに起因しているのではないだろうか(あまりにも短絡的な考えだったら,浅はかだと笑ってやってください ^^;;)。

 ひょっとすると子供たちの発達障害ってヤツも,そういう状況を指していたりしないだろうかってふと思ったのです。

 そうなってくると今度は,それこそ自身の身を守るために,もやもやしたその感情なり欲求なりを解釈する目的において,面倒がらずにきちんと「言語化」していくというのは,案外重要なことなのかも知れない。また,そういうスキルを軽視し続けたことは実はとんでもなく生きづらい自分自身を作りだしてしまった一因ではなかったのか。まだ考えが漠然としていますが,何かそんな感じをいま抱いています。

 私の世代と団塊世代の関係は「非対称なコミュニケーション」だった。しかし,私の世代と次の世代の関係というのはなぜか「対称なコミュニケーション」を目指していて,だけど社会というのはいまだに「非対称なコミュニケーション」が幅を利かせている。私自身でさえ,自分を失ってしまいそうになる出来事ばかりに見舞われているけれど……私の次の世代なんかは,私なんかより遙かに苦しんで大人になろうとしているかも知れない。そんなことを考えてしまいました。

 現役世代がまずブレずに生きなければ,ほんとうに希望がなくなってしまいそうで——だからこそ,次の世代を大事にしなければならないように思うのですが。安易に子供たちが自殺してしまうような社会,それは私たちの世代が押しつけている価値観の不自然さにも起因しているような。

 まだうまく言語化できてないなあ。このブログは私にとって,いろんな物事を言語化する訓練のひとつでもあったりします。長々と……お付き合いありがとうございます。

 

コメントは承認制にさせていただいております(ご投稿後,即時には掲載されません)。

必要な場合,私信などにもご利用下さい。