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いろんなことをつぶやくDJ番組的なブログ。文章書くことはまだ修行中の身です。


ネット海へ放ったいくつかのボトルメール( Messaga in a bottle )       カテゴリーは工事中です



出版物が信頼できないとなれば,どうすりゃいいのさ?

かため ブログ論 社会 読書 ネット

 

「信長読本」ミスだらけ 岐阜市は三重県? − 岐阜新聞 Web

岐阜市が編集に協力した歴史雑誌「岐阜信長 歴史読本」に地図の表記や年号の間違い・誤字脱字など約30カ所もの不備があることが分かり、市は発行元の出版社「KADOKAWA」に対応を求めている。岐阜市教育委員会は校正補助をしたが、確認時とは違う状態で印刷された箇所もあったKADOKAWAに対し「十分な確認を怠っており大変残念」とコメント。図書館や学校向けに購入した240冊は「この状態での配布は考えられない」としている。同社の担当者は取材に「連絡いただいた人には正誤表を送る。現段階での回収は考えておらず、重版となれば直すべき所は直したい」と答えた。

(記事は一部要約しています,強調<赤>はnagoyanianによる)

信長読本、一転刷り直し SNSで反響、謝罪 − 岐阜新聞 Web

雑誌「岐阜信長 歴史読本」で約30カ所の誤表記が見つかった問題で、KADOKAWAは雑誌を刷り直すことを決めた。当初、正誤表で対応する考えを示していたが「問い合わせも多く、読者に申し訳ない」と決めた。完成次第、購入者に交換対応をする方針。市教委は書店からの回収、ミスの修正と刷り直し、市が買い取った千部の交換を求め、同社は「善処する」と回答。雑誌は初版が1万部で、既に約2千部が売れているという。同社担当者は「誤植がかなり多く、途方に暮れるレベル。刷り直すことで読者に誠意を示したい」と話し、店頭からの回収について「取次店などと協議して決めたい」と述べた。一方、編集・校正として雑誌に名を連ねる都内の編集プロダクションは、ホームページに「問題の箇所には間違いの訂正指示を入れ、納品した。弊社校正後の段階で不具合が生じた」と掲載した。

(記事は一部要約しています,強調<赤>はnagoyanianによる)

 

 誰がどう悪いのか……はまず置いときましょうか。そういうことは当該会社「内部」での仕事の進め方の問題(ブラックボックス)でしかないと思うので。

 いずれにせよこれ,とんでもない事態だと思うのです。出版物の信用度がネット上のソース程度(その辺りはデリケートなので後述します)」と見なさざるを得ない事態になったなら,情報収集のあり方自体が根底から覆されてしまいます。紙媒体として世の中に出る書物に対しては,私は最大のリスペクトを持っているつもりですから。

 老舗大手出版社の信用と信頼は何といっても,執筆者もさることながら編集人の優秀さに支えられていると思うのです。「情報源だ」と謳っている以上は,その情報に誤りがあってはならない。それは当たり前。で,今回いちばんショックだったのは,そういう「あってはならないこと」が起こったにもかかわらず「正誤表で対応したい」なんて甘っちょろいことを言いはじめたってのが……もうまったく笑えない(怒)。ふざけんな,ですよね。

 

 冒頭で先送りした「ブラックボックス」の中身について少しだけ触れてみます。

 本を出すこと——言ってみれば,私のように「趣味で書いている者」にとってのそれは,まさに夢のようなことです。ただ,著者である者が世に出したいことをひとつの原稿にした時点で,まだ「まとまりを欠いていて主張が伝わりにくい」「論点が広すぎて損をしている」等々……プロの目から構成そのものへの提案をしたり,言葉づかい自体の修正や指摘をしたり,その道の権威に査読を依頼して裏を取り信頼度を増していったり,とにかく情報源にふさわしいものに練り直していく作業が行われていかなければ,出発時点のそれというのは何かと欠けているのが普通だと思う。さらに言えば,生原稿が活字(……とはもう呼ばないですかね)になった段階でミスやエラーが出ることもあるわけで,当然ながらそこで赤入れ(校正)が入る。完成して流通するまでには相当に複雑なプロセス(原稿自体の修正,紙面編集としての修正,純粋な意味での校正……)を経ますから,そこを完璧に交通整理する編集人の腕こそが命と考えます——ちなみに私には出版経験はありませんので(ただそれに近い仕事に携わる機会をもった事は何度かあるんです),かなりのところは想像で物を言ってます。お許しを。

 で,それこそ最近なら,私のPCだけを使って完成紙面に限りなく近いところまで作りあげてしまうことができますフォトショップイラストレータインデザインあたりを駆使して最後にキンコーズに行って製本までお願いすれば……それこそ本棚に置いてもさして違和感のない本を私ひとりで作り上げてしまえる時代だったりします。

 入稿段階でかなり綺麗なものが作れてしまうものだから,そんな状況だからこそ大きな誤解と怠慢が生まれはじめたんじゃないのかな。「そこまで作れるんだったら『完成品』を納入してよ」的な驕りが。でも,ツールがどれほど洗練されたとしても,それはヒューマンエラーを駆逐したという意味なんかではない。むしろ逆かも知れない。手書きで入稿していた時代よりもずっと洗練された入稿原稿が作れるようになってしまったことで,何かブラックボックスの内側でひどく錯覚を起こすような事態が起きてしまっているのではないでしょうか。

 繰り返します。入稿段階で「洗練された紙面が作れる」ことは,洗練された入稿原稿を作ることができる人に「校正まで責任を移譲できるようになった」という意味なんかではない

 私は今まさに自身の修行みたいな感じで,こうしたエントリーをWEB上にまき散らしています(笑)。これがもし書籍だったなら,こんな無責任なやり方が許されないことをはっきり自覚しています。自分でいろんなことを書いていく中で難しく感じているのは,「自分の書き言葉の不自然さに気づくこと」「うっかりミスを駆逐することの困難さ」,そして……やはり一番ムズカシイのが「情報の裏を取ること」「専門以外の分野に関しておかしなことを言ってないかどうかを検証すること」なのです。一人では無理です。私は今やっていることを「お金に」変えるだけの資格をまだ有していません。情報源としていかがわしいものになりそうなエントリーに関しては,極力「裏取れませんでした,ごめんなさい」って書くようにしていますが,そうやって逃げている自分ってのも本当にもどかしい。

 出版物の話に戻ります。著者の何かの主張があって話が広がっていく過程で,正確を期する意味において「思い込みがあった」なんてことはどんな偉い人であっても有りうるのではないかと。佐藤優さんの「君たちが知っておくべきこと」(新潮社 2016)という本の「間違いだらけの外交教科書」「権威にまどわされるな」というくだり(P.55〜59)に,ある著者のまちがいがそのまま出版社から流通してしまった興味深い事例が書かれています。本当は引用したいのですが,ここに載せるとさすがに冗長になりすぎますので自重。

 結局,大手出版社の社員が「早慶・東大一橋卒」の人々で固めらている(ように見えてしまう)……ってのは必然的なことだと思っています(それとも最近はそこまでストイックな状況なんかではなかったりするんかなあ)。そうした物事を的確に指摘できる「教養」だとか,かつ「自分が知っていることと知らないことを区別できる(思い込みやはずみで言ってしまわない)」スキルなどといった事が,(実にイヤな言い方なんですが)出身校の偏差値にある程度比例してくるというところはあると思うのです。

 かといって,出版物の執筆者がそういう学校の出身者や権威に集中するのもつまらない。「主張する人」に関しては,肩書きが選ばれずバラエティーに富んでいるほうが楽しいに決まっている。いろんな主張をする人を「信頼性の面でサポートし,主張できる場に立たせられる」だけのちゃんとした編集人ってのは本当に必要なものでして。やはりそういう「頭のいい方々」の助けなしに,大きなことを為しえないところがあったりする。皮肉でも何でもなく……ほんとのところ,それが本心です。

 いろんなブログを読ませていただいていていると,本当に「目からウロコ」なものが多いです。私も早く,そういう方々に追いつけるようになりたいです。で……「本当にいいもの」はいい編集人と巡り合って,主張を損ねずに(でも言葉遣いや情報部分の正確さなどが吟味され,適切な編集がなされた上で)信頼のおける出版社から良質な出版物として流通してほしいと思います。それをお金出して買うことで,その人の業績に対して敬意を払いたいと考えたりなんかもします。

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