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いろんなことをつぶやくDJ番組的なブログ。文章書くことはまだ修行中の身です。


ネット海へ放ったいくつかのボトルメール( Messaga in a bottle )       カテゴリーは工事中です



私は「気分」でしょうか?

覚え書き 社会

 

 気分の見解をすべて私の見解として引き受けることに合点がいくでしょうか? 狂気を帯びた発問のように思えますか?……まったくそんなことは無いんじゃないかなあ。自分が気分だとすれば,社会の中でその人は大変な軋轢を生み出してばかりだと思います。

 だって気分というのは,まるで子供みたいですもの。40超えたオッサンになり果てた今,心底そう感じます。ふさわしくないタイミングで「疲れた」とか「眠い」とか呟き,ときには視界に入るものに対して汚い語彙で毒づいたりする。その一方で,何かいいことがあったり褒められたときは健気に「頑張る」って言ってみたり,美味しいものを食べているときには「幸せ」って呟いていたり。本当にどうしようもないヤツだけど,どこか憎めないヤツ……理性のほうは歳を重ねるごとに社会へ順応してきたに違いないんだけど,気分のほうはまさに子供のころから何ひとつ変わらずここにある。

 こいつこそが「魂」と呼んでしまうべきものなんだろうな——と,私はそう思っていたりなんかするのです。あえて読み返さずに書きますが,だいぶ前に夢中で読んでいた池田晶子さんあたりがそういうことを述べていたように思うんです(違うかもしれませんがご勘弁を)。400年ほどのむかし,「我思う,ゆえに我あり」(情念論)と述べたデカルトは,心が自由意志をもち身体が機械的運動をする独立した実体であることを主張した——哲学がいうところの心脳問題っていうのが何を論点にしているのかといったところが,学問としての哲学に触れた経験をもたない私にとってはいまだにピンとこないところなんです(苦笑)……私の薄々感じているそれというのはそこまで壮大な話(もしくは単純化されすぎた話?)なんかではないように思います。

 心理学は気分を取り扱い,哲学は理性を取り扱う——という線引きもいまひとつピンときません。だってデカルトの言い分が気分を放棄しているってところまでを論点にしているようになんか思えないので。

「この容疑者に殺意はあったのか?」などと言うとき,この容疑者は必要な理性を持ち合わせていたのかという物事をマスコミは論点にしてるのだろうけれど,どう考えたってその容疑者は気分に動かされて犯罪を犯したに違いない。かといって,気分を抱く段階が罰せられるべきことであるはずがない。だって無理だろ(笑)。自分という個体を護る本能にあたる何物かが気分なのでしょうから,それが無いってことは,自分という個体の存続よりも,理性という幻のほうに身を捧げるって意味になってしまう。おそらく,そんな状態こそが「自己評価が低い」状態なんだろうなって思うわけです。

 その「自己評価の低い」状態はまさにその人自身にとっては非常事態なのですが,社会的にいえばむしろ「望ましい」状態ってことにしてしまっていたりする。自信ってヤツに無理矢理実体を与えようとするとき,自分と社会との間でポジショントークで折り合いつけながらやっているのが我々。そんなわけで……あまり正直者になりすぎるとバカを見るんじゃないかなと。これからは……もっと不真面目に生きてみたいなって,ちょっぴりそんなことを思うわけです。<気分>が<自分>だと思い込んでしまったとき,きっと不幸なことを起こしたり起こされたりするもので。

 最近の「キレる老人」というのが,まさにそういう状態を意味しているように思えてなりません。もちろん,加齢にともなう脳機能の低下という要素を加味して眺めないことにはアンフェアでしょうから,そこは反省しておきたいと思います。要するに……その人の魂が「キレている」ことを客観的に理解できそうな気がしなくもないんです。お年寄りに(私の)気分のレベルで嫌悪感を抱かされることが少なくないその一方で,(彼の)気分に対して何か情状を酌量しなければ割に合わないだろうなという一面も同時に感じるんです。自分だっていつかはそういう加齢した脳を,肉体として引き受けなければならないのです。

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